2020.09.04 Friday
檀特山
先日、国立文楽劇場の若手素浄瑠璃の会で、碩太夫さんが「組打の段」を語りました。私は仕事をしていたので聞けませんでしたが、「またの機会」なんて、いつあるのかなあ。
同時期に、吉右衛門さんが、『一谷嫩軍記』を題材に新しく書き下ろした『須磨浦』の映像を配信なさいました。素晴らしい映像で、生の舞台を見てみたかったと思いましたが、無観客収録で誰も見ていなかったのだと思えば、まだ諦めもつくというものです。
『須磨浦』は、30分弱に削ぎ落とされた映像ということで、どうやってカットを入れるのか興味がありました。「悉陀太子を送りたる、車匿童子の悲しみも」のくだりはカットされるのかなと思っていましたが、上演されました。見ている人は、どれくらいの人が分かったのでしょう。「客が分からなくても上演する」というのは、すごいことだなあと思いました。客に「分かりたい」と思わせるのが、名演というものなのかもしれません。
一番重要な部分が一番難解、という事例ですが、確かに、檀特山から檀特山をカットしたら檀特山にならない。
文楽ではあまり「檀特山」とは言わない気がする。
二代目松緑さんは、「私の好きな役」という記事の中で『檀特山』をあげています。
演じる役はすべて好きです。また好きでなければやっていられません。その中でも何が好きかと問われれば、熊谷の『陣屋』よりも『檀特山』でしょうか。ここには詩があります。
演劇界増刊『歌舞伎の魅力』昭和53年より
熊谷次郎直実は実在の人物ですが、Aが起こり、次にBが起こり、最後にCとなった、というように歴史上の事実を順番に述べていくだけでは、詩にならない。「檀特山」は、起こった出来事に対して作者が想像した夢であり、すなわち詩でありましょう。一番おいしい部分ですから、じっくり味わいたいものですね。